東京地方裁判所 平成9年(ワ)13805号 判決 1999年3月12日
原告
甲野花子
右訴訟代理人弁護士
抜山映子
被告
M商事株式会社
右代表者代表取締役
乙山太郎
右訴訟代理人弁護士
河崎光成
同
萩谷麻衣子
主文
一 被告は、原告に対し、金三一一万円及びこれに対する平成九年七月一三日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告のその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用はこれを二〇分し、その九を原告の負担とし、その余を被告の負担とする。
四 この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。ただし、被告が金二五〇万円の担保を立てたときは、右仮執行を免れることができる。
事実及び理由
第一請求
被告は、原告に対し、金五六一万円及びこれに対する平成九年七月一三日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二事案の概要
被告の従業員であった原告は、上司から「ホテルに行こう。」と繰り返し誘われたため、被告代表者にそのことを訴えたが、個人的な問題であり当事者同士で解決するように言われたので、弁護士に解決を依頼し、上司との間で、上司が原告に陳謝し、慰謝料三〇万円を支払うこと等を内容とする示談をした。原告は、右示談後に、当該上司が被告代表者に原告を解雇するよう求めているものと受け取り、これに憤って職場で示談書のコピーを取って他の従業員に配布しようとし、これに気付いた上司との間で言い争いになった。被告代表者は、原告とその上司とが私的ないさかいを蒸し返して職場の秩序を乱したこと等を理由に、原告に対し、当該上司と共に依願退職するよう求め、他の従業員の前で原告が依願退職することになったと告げ、後任者を採用した。原告は退職届を提出しなかったが、結局、勤務の継続を断念し、原被告間の雇用契約は終了した。
本件訴訟は、原告が、被告代表者に違法に解雇されたとして、不法行為による損害賠償を請求する事案である。
一 前提となる事実(争いのない事実のほか、証拠により認定した事実を含む。認定の根拠とした証拠は各項の末尾に挙示する。)
1 当事者及び本件雇用契約
(一) 原告は、平成八年三月に被告に採用され(当時三一歳)、銀座本社に配属され、丙川一郎(以下「丙川」という。)総務部長兼経理部長の直属の部下として総務及び経理事務に従事していた(以下原被告間の雇用契約を「本件雇用契約」という。)。
(二) 被告は、水産物、その缶詰の販売及び輸出入等を目的とする株式会社である。平成九年一月当時の銀座本社の従業員は十数名であり、そのうち女性は原告だけであった。(<証拠略>、弁論の全趣旨)
2 原告の給与月額
原告は、被告から、毎月の給与として、基本給一七万五〇〇〇円、資格手当五万円、住宅手当三万円、特別手当三万円及び食費手当五〇〇〇円、以上合計二九万円(社会保険料、所得税込み)の支払を受けていた。(<証拠略>、原告本人)
3 丙川の原告に対する言動
(一) 丙川は、平成九年一月二二日午前八時二〇分ころ及び午後三時ころ、給湯室でお茶の準備等をしていた原告に対し、飲みにでも行こう等と誘い、午後五時過ぎに原告と近くの喫茶店で落ち合い、店を出ると、原告に対し、「ホテルに行こう。」、「甲野さんはホテル詳しそうだから連れてってよ。」などと言った。丙川は、八重洲地下街で食事後、ホテルに行こうと原告を更に誘い、中央線で帰ろうとする原告に対し、「新宿に行こう。新宿ならホテルあるだろう。あんたホテル詳しいんだろう。ホテルまで連れてってくれたらあとは私に任せればいいから。」等と述べたが、原告はこれを拒絶し、新宿の喫茶店に入って時間をつぶした後、丙川と別れた。
(二) 原告は、平成九年一月二三日、書店でセクシュアル・ハラスメント関係の本を買い求め、労働省婦人少年局に相談し、録音テープ等の証拠を残すこと、社長にまず相談することとのアドバイスを受けた。
(三) 丙川は、平成九年一月二四日午前八時半ころ、給湯室で原告に対し、「今日ホテルに行こう。」と言った。
(四) 丙川は、平成九年一月二八日午後、OA機器の操作をしていた原告に対し、背後から、「三〇、三一日と社長が病院で早く帰るから、どちらかあけておいてよ。」と言った。(<証拠略>(右認定に反する部分を除く。)、原告本人)
4 原告の丙川に対する抗議、被告代表者に対する訴え
(一) 原告は、平成九年一月二九日午後六時過ぎ、丙川を銀座東急ホテルのコーヒーラウンジに呼び出し、同月二二日以降の言動によって体調が悪いことを訴えて抗議し、謝罪を求めたが、丙川は、やりづらくなることはない、原告は考えすぎだ等と述べてまともに取り合わず、かえって、「言われるくらいの女性じゃないと。一人の女性としてそれは本人にとって誇りと思うよ。女性にとって誇りととればいいじゃない。そんなのあっけらかんとしてりゃいいんだからさ。」、「週刊誌にじゃんじゃん載ってるでしょ。そういうことはさ、雑誌にだって書いてあるように、深刻にとらえることないのよ。」等と述べ、原告が帰ろうとすると食事に誘った。原告はこれを断って別れた。原告は、ポケットに小型の録音機を入れておいて会話を録音し、知人に近くに待機して見張ってもらっていた。
(二) 原告は、平成九年二月三日、被告代表者に丙川の前記言動を説明し、仕事に支障を来していると訴えた。被告代表者は丙川からも事情聴取の上、措置を執ると述べた。
(三) 被告代表者は、平成九年二月四日、被告の相談役の飯野虎雄にも同席してもらい、丙川から事情を聴取した。丙川は、一部は事実を認めたが、一部は否定し、もともとは原告から誘いかけるような行為があった、以前から原告とは付き合いがあった等と述べた。もっとも、丙川がその誘いかけ、付き合いの中身として具体的に述べたのは、同月九日に原告と食事をしたことと、原告が週刊朝日、週刊新潮、サンデー毎日、週刊文春、週刊現代等の週刊誌をくれたこと等であった。
(四) 被告代表者は、平成九年二月一五日、原告から、同年一月二九日の丙川との会話の録音テープの反訳文を受け取り、丙川にその内容を聞いた。
(五) 被告代表者は、以上の調査の結果、丙川が一方的にセクシュアル・ハラスメントをしているというよりも、どちらかというと両者の個人的な問題であり、両者の話合いで解決を図ることが相当であると判断した。そこで、被告代表者は、平成九年二月二一日、丙川と原告との両者を呼んで、丙川に原告に対して謝らせ、両者で和解するように求めた。(<証拠略>、原告本人、被告代表者)
5 原告と丙川の示談
(一) 原告は、抜山映子弁護士(以下「抜山弁護士」という。)に丙川との交渉、解決を委任し、抜山弁護士は、丙川に対し、平成九年二月二六日到達の内容証明郵便で丙川の前記言動を指摘し、謝罪と損害賠償金三〇万円等を請求した。これを受けて、丙川は、同年三月七日、原告の代理人抜山弁護士との間で右の内容で示談をし、書面(<証拠略>)を作成した。
(二) 被告代表者は、同年三月中旬ないし下旬(その正確な時期は6(一)で認定するように同年三月二四日である。)、丙川から、原告の代理人である抜山弁護士と話し合った結果、正式に原告に謝罪し、かつ、三〇万円を支払うことを約束した旨報告を受けた。(<証拠略>、原告本人、被告代表者)
6 原告と丙川の紛争の再発とこれに対する被告代表者の対応
(一) 原告は、平成九年三月二四日、丙川が被告代表者に対し、弁護士に脅されるようなことを言われて三〇万円を支払う約束をさせられたと弁解をしているのを聞き、さらに、被告代表者が丙川に「こうなったら断下しますよ。」と述べ、丙川が「断下してください。」と述べたのを聞いて、丙川が被告代表者に対し、原告を解雇する等の不利益な取扱いをするよう仕向けているものと受け止め、これに憤って、同年三月二六日、被告の従業員に見せるため、出勤後すぐ、被告のコピー機を使って原告が送った内容証明と丙川の謝罪文のコピーを取り始めた。丙川は、これに気が付き、事務所内で原告を追い回し、原告に対し、内容証明に不満があると述べ、弁護士の所へ行こうと言い募った。原告は、代理人に話すよう答えたが、丙川は、収まらず、自ら抜山弁護士に連絡を取り、同日午後二時半に面談する約束を取り付けた。
被告代表者は、出勤すると、社内の雰囲気が異様であると感じ、富田部長らに問いただし、丙川と原告とが社内で大声で言い争いをし、他の従業員の間にも気まずい雰囲気が漂ってしまったとの報告を受けた。そこで、被告代表者は、原告と丙川とが、丙川のセクシュアル・ハラスメントをめぐる争いを蒸し返して会社内でいさかいをして、他の従業員に悪影響を及ぼしており、両者のこのような態度が被告の従業員としてふさわしくないと判断した。
(二) 丙川と原告は、平成九年三月二六日、抜山弁護士の事務所で、再度示談をし、「平成九年三月七日付け書面にて約束したとおり本件にかかわることについて乙(原告)が不利益を被るような言動を社内、社外においてとらないことを誓約する。万が一、社長が乙(原告)を解雇、減給等の処分をしようとした場合は、甲(丙川)が責任をもって阻止するものとする。乙(原告)は、社内において本件にかかわることを誰にも開示しない。甲(丙川)に対して、上司として礼儀と節度ある態度で接するものとする。」等を内容とする合意書(<証拠略>)を取り交わした。
(三) 被告代表者は、平成九年三月二七日、原告と丙川に対し、本来なら懲戒解雇であるが、両者の将来を考えて一緒に同年四月末日限り依願退職の形で辞めてもらいたいと告げた。(<証拠略>、原告本人、被告代表者。<証拠略>の記載及び被告代表者の供述中右認定に反する部分はたやすく採用することができず、他に右認定に反する証拠はない。)
7 本件雇用契約の終了
(一) 被告代表者は、原告に対し、平成九年四月二四日、同年四月末日の退職日を同年五月一五日まで延ばして欲しい、後任は既に決まっている旨告げた。被告代表者は、同年四月二五日、他の従業員の前で原告が辞職する旨を述べた。被告代表者は原告の後任としてS(以下「S」という。)を復職させることとし、同年五月一日、六日及び九日にSを来社させた。原告は、同年五月六日及び九日、丙川の指示によりSに事務を引き継いだ。丙川は、被告代表者に対し、同年五月一二日付けで「退職願」と題する書面(<証拠略>)を提出した。原告は、勤務の継続を断念し、退職金を受領したものの、丙川のように退職届を提出しなかった。
(二) 被告が作成した「離職票賃金支払い証明書」と題する書面(<証拠略>)が平成九年五月二二日に原告に送付されてきたが、この書面には、離職理由として事業所の都合による整理解雇である旨記載されていた。原告は、不眠状態に陥り、同年六月一三日に診療所で治療を受け、同年六月一九日には「うつ状態」という診断を受け、同年七月四日に本件訴訟を提起した。(<証拠略>、被告代表者)
8 被告の就業規則
本件解雇当時被告において適用されていた就業規則(<証拠略>)四条は、「社員は、この規則を守り、職務上の責任を重んじ互いに助け合い、礼儀を尊び職制に定められた上司の指示、命令に従わなくてはならない。上司は所属社員の人格を尊重し、親切にこれを指導し、率先その職務を遂行する共に従業員がその職務に関し意見を具申したときは誠意をもって処理しなければならない。」と定め、五条五号は、「違法な行為をしないこと」を定め、六条三号は、「喧嘩、賭博、流言、落書その他会社秩序を乱し、人心に動揺を招くような言動を行わないこと」を定め、二一条一項は、解雇事由として、「精神または身体上の故障のため、業務に堪えないとみとめられるとき」(一号)、「技術または能率が低劣のため就業に適さないとみとめられるとき」(二号)、「打切補償を行ったとき」(三号)、「事業の縮小または設備の著しい変更により剰員となったとき」(四号)、「業務上の都合によりやむを得ない事由のあるとき」(五号)及び「その他前各号に準ずるやむを得ない事由のあるとき」(六号)を定めており、五〇条五号、六号及び二一号は、懲戒解雇事由として、「就業規則及び会社の諸規程、通達、指示を守らず会社の秩序を乱したとき。または重大な事故を起こしたとき。」、「会社の指示命令に従わず、業務運営を妨げもしくは会社も(注「の」の誤りと思われる。)経営に非協力的な言動のあったとき」及び「その他前各号に準ずる程度の行為があったとき」を定めていた。
この就業規則は労働基準監督署長に届出はされていなかった。(<証拠略>、被告代表者)
二 争点
1 解雇の成否(解雇か合意退職か)
被告代表者は、遅くとも平成九年五月一五日までに原告を解雇する旨の意思表示をしたか。それとも、原告は、平成九年五月一五日、被告代表者との合意により被告を退職したか。
2 被告代表者のした解雇は、正当な理由のない解雇であったか。
3 違法な解雇についての被告代表者の故意・過失の有無
4 損害の有無・金額
第三当事者の主張
一 請求の原因
1 当事者及び本件雇用契約
争いのない事実等1及び4(二)のとおり。
2 違法な解雇
(一) 被告代表者は、原告に対し、平成九年三月二七日、原告が丙川からセクシュアル・ハラスメントを受けたとして両者の個人的な問題を社内に持ち込み、社内を混乱させたことを理由に、本来なら懲戒解雇であると告げた上で、依願退職の形で辞めるよう求め、原告がこれに応じなかったために同年五月一五日までに原告を解雇する旨の意思表示をしたものであり、解雇に正当な理由がないことを知りながら、又は正当な理由がないにもかかわらず、これがあるものと軽信して原告を違法に解雇した(以下「本件解雇」という)。
(二) 被告代表者は、原告の後任としてSを復職させることとし、同年五月六日以降原告にSに対する引継ぎをさせる等して、原告が勤務を継続することを事実上不能にし、労働契約の継続を断念させた。
3 損害
(一) 原告の給与月額相当額
原告は、被告から、毎月の給与として、基本給一七万五〇〇〇円、資格手当五万円、住宅手当三万円、特別手当三万円及び食費手当五〇〇〇円、以上合計二九万円(社会保険料、所得税込み)の支払を受けていた。
原告は、本件解雇により、被告から受けられたはずの給与を受けられず、少なくともその六箇月分一七四万円相当の損害を受けた。
(二) 賞与相当額
原告は、本件解雇がされなければ、平成九年七月には給与月額の二箇月分に相当する夏期賞与五八万円の、及び同年八月には給与月額の一箇月分に相当する決算賞与二九万円の支給を受けることができるはずであった。
(三) 慰謝料
原告は、違法な本件解雇により、理由のない屈辱を受け、安定した収入を失ったことの不安、再就職できるかどうかの不安にさいなまれた。原告の受けた精神的損害を慰謝するには三〇〇万円を相当とする。
4 よって、原告は、被告に対し、商法二六一条三項、同法七八条、民法四四条一項所定の不法行為による損害賠償請求権に基づき、損害金五六一万円及びこれに対する不法行為のあった日の後である平成九年七月一三日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二 請求の原因に対する認否
1 請求の原因1の事実は認める。
2 同2(一)の事実のうち、被告代表者が、平成九年三月二七日、丙川と原告とを呼び出し、右両名に対し、社内を混乱させたことを理由に、本来なら懲戒解雇であると告げた上で、依願退職の形で辞めるよう求めたことは認め、その余の事実は否認する。
被告代表者が右のとおり依願退職の形で辞めるよう求めたのは、原告と丙川とが営業時間中にセクハラ問題で大声で口論する等、時所をわきまえず被告の業務を阻害し、秩序を乱したからである。原告と丙川は、同年二月ころから丙川のセクシュアル・ハラスメントについて被告の社内でも口論するようになり、勤務時間中に大声でいさかいをして職場の雰囲気を壊し、他の従業員に対して迷惑をかける等、その行為は目に余るようになった。被告代表者は、原告と丙川とが被告に迷惑をかけることなく自主的に解決することができないとすれば、被告の従業員としてふさわしくないと判断し、会社を辞めてもらいたいと述べ、両名の今後の転職等のことを考慮して依願退職の形を取る旨告げると、両名は納得して退職に合意した。丙川は、同年五月一二日、被告に対し、退職願を提出した。原告は、退職届は提出しなかったものの、退職することを納得して退職金を受領し、退職金計算書(<証拠略>)に署名捺印した。
丙川が執拗にセクシュアル・ハラスメントを行った事実は認め難い。原告は、同僚に相談しただけでなく、平成九年一月二九日に丙川と会った際、見張り役までさせた。原告から相談を受けた従業員は、同年三月から六月までの間に全員が退職した。原告の丙川の言動に対する対応は、過大であり、被告の業務に悪影響を与えた。原告は、同年二月以降丙川を無視するかのような態度を取っていた。
同2(二)の事実のうち、被告代表者が原告の後任としてSを復職させることとしたこと、同年五月六日から原告にSに対する引継ぎをさせたことは、明らかに争わない。
3 同3(一)から(三)までの事実は否認する。
4 同4は争う。
第四当裁判所の判断
一 解雇の成否について(解雇か合意退職か)
被告代表者は、平成九年三月二六日、原告と丙川とが、丙川のセクシュアル・ハラスメントをめぐっていつまでも会社内にいさかいを持ち込み、社内の雰囲気を著しく害していることを理由に、このような態度が、被告の従業員としてふさわしくないし、そのことが仕事にも大変な悪影響を及ぼすと判断し、同年三月二七日に原告と丙川に対し、本来なら懲戒解雇であるが、両者の将来を考えて一緒に同年四月末日限り依願退職の形で辞めてもらいたいと告げたこと、丙川は、被告代表者に対し、同年五月一二日付けで「退職願」と題する書面(<証拠略>)を提出したが、原告は、退職金を受領したものの、丙川のように退職届を提出しなかったこと、被告代表者は、原告に対し、同年四月二四日、同年四月末日の退職日を同年五月一五日まで延ばして欲しい、後任は既に決まっている旨告げたこと、被告代表者は、同年四月二五日、他の従業員の前で原告が辞職する旨を述べたこと、被告代表者は原告の後任としてSを復職させることとし、同年五月一日、六日及び九日にSを来社させたこと、原告は、同年五月六日及び九日、丙川の指示によりSに事務を引き継いだこと、同年五月二二日、被告が作成した「離職票賃金支払い証明書」と題する書面(<証拠略>)が原告に送付されてきたが、この書面には、離職理由として事業所の都合による整理解雇である旨記載されていたこと、原告は、不眠状態に陥り、同年六月一三日に診療所で診療を受け、同年六月一九日には「うつ状態」という診断を受け、同年七月四日に本件訴訟を提起していること、以上の事実が認められることは前記のとおりである。
右の事実によれば、被告代表者は、原告に対し、本来なら懲戒解雇であるとまで告げた上で、依願退職の形で辞めるよう求め、原告の後任のSを採用して原告に引き継ぎを行うよう求め、他の従業員に対し原告が退職することになったと述べて、原告が勤務を継続することを事実上不能にしており、他方、原告は、右の事情から勤務を継続することができず、解雇の効力を承認せざるを得ないと判断し、退職金を受領したものの、丙川のように退職届を提出しなかったものであるから、被告代表者は、遅くとも平成九年五月一五日までに原告を解雇する旨の意思表示をしたものと認めることができる。
二 本件解雇の違法性について
1 平成九年三月二六日、原告は、被告の従業員に見せるため、出勤後すぐ、被告のコピー機を使って原告が送った内容証明と丙川の謝罪文のコピーを取り始めたこと、丙川がこれに気が付き、事務所内で原告を追い回し、原告に対し、内容証明に不満があると述べ、弁護士の所へ行こうと言い募ったこと、原告は、抜山弁護士に話すよう答えたが、丙川は、収まらず、自ら抜山弁護士に連絡を取り、同日午後二時半に面談する約束を取り付けたこと、被告代表者は、出勤すると、社内の雰囲気が異様であると感じ、富田部長らに問いただし、丙川と原告とが社内で大声で言い争いをしており、他の従業員の間にも気まずい雰囲気が漂ってしまったとの報告を受けたこと、そこで、被告代表者は、原告と丙川とが、丙川のセクシュアル・ハラスメントをめぐる争いを蒸し返して会社内でいさかいをして、他の従業員に悪影響を及ぼしており、両者のこのような態度が被告の従業員としてふさわしくないと判断し、前記のとおり、原告と丙川に対し、本来なら懲戒解雇であるが、両者の将来を考えて一緒に同年四月末日限り依願退職の形で辞めてもらいたいと告げたこと、以上の事実が認められることは前記のとおりである。
2 被告代表者は、前記のとおり、平成九年三月二六日に出勤して社内の雰囲気が異様であると感じ、富田部長らから、丙川と原告とが社内で大声で言い争いをしており、他の従業員の間にも気まずい雰囲気が漂ってしまったとの報告を受け、原告と丙川とが、丙川のセクシュアル・ハラスメントをめぐる争いを蒸し返して会社内でいさかいをして、他の従業員に悪影響を及ぼし、被告の従業員としてふさわしくない態度を取ったとして、両者の行為が懲戒解雇事由に当たると判断したものである。確かに、原告が、同日、被告の従業員に見せる目的で、原告が送った内容証明と丙川の謝罪文のコピーを取り始めたことは相当ではなく、丙川の反発を招き、両者が社内で大声で言い争いをし、他の従業員の間にも気まずい雰囲気を醸成して社内の秩序を少なからず損なったことは否定できない。
しかしながら、丙川は、平成九年三月七日、原告に対し、同年一月二二日から同年一月二九日の間に原告に対してした行為を謝罪し、この件について原告が不利益を被るような言動をしないことを誓約し、三〇万円を支払うことを約し、これを書面(<証拠略>)に書いて署名指印したのであり、さらに、同年三月二六日の言い争いの後にも、抜山弁護士の事務所において、原告に対し、右書面にて約束したとおり本件にかかわることについて原告が不利益を被るような言動を社内、社外においてとらないことを誓約し、被告代表者が原告を解雇、減給等の処分をしようとした場合は、責任をもって阻止することを約し、他方、原告にも、社内において本件にかかわることを誰にも開示しないことと自分に対して上司として礼儀と節度ある態度で接することを約束させ、これらの内容を記載した「合意書」と題する書面(<証拠略>)に署名指印したのであるから、丙川が原告に対してセクシュアル・ハラスメントを行ったこと自体は動かし難い事実であると言わなければならない。したがって、既に丙川が和解をして責任を自認し、支払うべき和解金の金額まで合意済みである以上、丙川の弁解は、被告が丙川に対する懲戒処分を行うか否か、行うとしてどのような処分をするかを決定する上で考慮する必要があるにとどまることとなったものである。そして、原告が前記のような行為に出たことは不相当であったとはいえ、これが丙川のセクシュアル・ハラスメントに起因するものであることも動かし難い。
さらに、前記のとおり、原告は、同年三月二四日、丙川が被告代表者に対し、弁護士に脅されるようなことを言われて三〇万円を支払う約束をさせられたと弁解をしているのを聞き、さらに、被告代表者が丙川に「こうなったら断下しますよ。」と述べ、丙川が「断下してください。」と述べたのを聞いて、丙川が被告代表者に対し、原告を解雇する等の不利益な取扱いをするよう仕向けているものと受け止め、これに憤って前記行為に及んだことが認められるから、右事実をも併せて考えると、原告が前記のような行為に出たことにも相当無理からぬ事情があったものと言うべきである。
右の各点を考えると、原告の前記行為は、被告の就業規則の定める懲戒解雇事由又は解雇事由に形式的に該当するとしても、原告が前記行為に及んだ原因、行為の態様、被告の事務を阻害した程度に照らすと、解雇されてもやむを得ないものということはできないから、本件解雇は、正当な理由を欠くものであり、解雇権を濫用した無効のものといわざるを得ない。
三 被告代表者の故意又は過失について
被告代表者は、丙川のセクシュアル・ハラスメントをめぐる問題について、同年三月中旬ないし下旬に、丙川から、抜山弁護士と話し合った結果、正式に原告に謝罪し、かつ、三〇万円を支払うことを約束した旨報告を受けていたのであるから、その報告内容に照らしても、丙川が相当重大な行為をしたことを自ら認めて少なくない金員を支払う約束をしたことをもっと重く受け止めるべきであった。被告代表者としては、右の報告内容のほか、同年二月に原告から渡された丙川との会話の録音テープの反訳文等を併せて考慮すれば、丙川がいかに弁解をしたにせよ、丙川が原告にした言動が、両者の個人的な問題に属するような次元の問題ではなく、丙川が原告を性的関心の対象とし、職場において原告の意に反する性的な言動を行い、原告に精神的苦痛を与えたものであること、すなわち、原告に対するセクシュアル・ハラスメントにほかならないことを当然見抜くべきであったと言わなければならない。被告代表者が右のことを見抜いていれば、同年三月二六日に被告の事務所において起きた原告と丙川との言い争いの件について、丙川のセクシュアル・ハラスメントにつき既に示談が成立していたとはいえ、原告が職場で不利益な取扱いを受けるのではないかとの不安からそのような行動に出た可能性に思いを致し、更に事実関係を十分調査し、原告の不安を除去するために適切な措置を執らなければならないことに気が付いたことであろう。しかるに、被告代表者は、セクシュアル・ハラスメント問題の本質を見抜くことができず、その加害者である丙川の弁解を軽信し、原告と丙川との間の問題は個人的な問題であるにすぎず、それが両者の間で私的ないさかいに発展したにすぎないととらえたために、両者が個人的な争いを蒸し返して社内秩序を乱したものと判断し、原告に対し、本来なら懲戒解雇であるが、将来を考えて丙川と一緒に同年四月末日限り依願退職の形で辞めてもらいたいと告げ、結局、本件解雇をするに至ったものであるから、被告代表者が右判断に基づいて原告を辞めさせる正当な理由があると考えて本件解雇をしたことには、過失があるというべきである。
四 損害について
1 逸失利益
(一) 原告の給与月額相当額
原告は、被告から、毎月の給与として、基本給一七万五〇〇〇円、資格手当五万円、住宅手当三万円、特別手当三万円及び食費手当五〇〇〇円、以上合計二九万円(社会保険料、所得税込み)の支払を受けていたが、被告代表者が、本件解雇をしたほか、前記のとおり、他の従業員の前で原告が辞職する旨を述べ、原告の後任としてSを復職させることとし、同年五月一日、六日及び九日にSを来社させる等の措置を執ったことによって、被告において勤務を継続することを事実上不能にされ、労働契約の継続を断念させられたことが認められるから、原告は、被告代表者の右行為により被告から受けられたはずの給与を受けることができなくなり、賃金請求権を喪失させられたものというべきである。
(証拠略)及び原告本人尋問の結果によれば、原告は、平成九年六月二三日から同年九月三〇日までの間、合計五四万九〇〇〇円の傷病手当(雇用保険法三七条)を受領したことが認められるが、被告代表者のした違法な解雇によって喪失した賃金相当額の損害は、右傷病手当支給額を控除してもなお、給与月額六箇月分に相当する一七四万円を下回らないものと認める。
(二) 賞与相当額
(証拠・人証略)によれば、被告は、平成八年まで過去数年間にわたって毎年賞与を年三回支給してきており、原告は、平成八年七月には給与月額の二箇月分に相当する夏期賞与五八万円の支給を受け、同年八月には給与月額の一箇月分に相当する決算賞与二九万円の支給を受けたことが認められる。もっとも、被告代表者の尋問の結果(<証拠略>)によれば、平成九年には三箇月間ほど被告の営業成績が下がった時期があったことが認められるが、被告が平成九年八月に決算賞与を支給しなかったことを認めるに足りる証拠はない。
右事実によれば、原告は、本件解雇がされなければ、平成九年七月には給与月額の二箇月分に相当する夏期賞与五八万円の、同年八月には給与月額の一箇月分に相当する決算賞与二九万円の支給を受けることができるはずであったから、原告は本件解雇により合計八七万円の損害を受けたものと言うべきである。
2 慰謝料
(証拠略)及び原告本人尋問の結果によれば、原告は本件解雇により、安定した給与収入を失い、再就職できるかどうかの不安にさいなまれたことが認められるから、右精神的苦痛を慰謝するには、逸失利益相当額の損害賠償を受けられることを考慮してもなお三〇万円の支払を必要とする。
また、原告は、被告代表者に対して丙川からセクシュアル・ハラスメントを受けたことを申し出て、適切な措置を執ることを期待したのに、丙川と原告との間の個人的な問題、私的ないさかいにすぎないととらえられ、本件解雇をされるに至ったものであるから、このことによっても精神的苦痛を受けたものであり、これを慰謝するには二〇万円が相当である。
五 結論
以上の次第であって、原告の請求は、損害金三一一万円及びこれに対する不法行為のあった日の後である平成九年七月一三日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから、これを認容し、その余の請求は理由がないから失当としてこれを棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法六一条、六四条を、仮執行の宣言について同法二五九条一項を、仮執行免脱の宣言について同法二五九条三項それぞれ適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 髙世三郎)